社会学と建築のオーバーラップ

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第2回 『ひとり空間の都市論』×『OVERLAP』
南後由和(社会学者・明治大学准教授[現 法政大学教授])×川添善行
司会|小南弘季
2024年5月29日[於 紀伊國屋書店新宿本店3階アカデミック・ラウンジ]

川添南後さんと私は2人とも1979年生まれです。社会学者と建築家と、それぞれアプローチは異なりますが、同世代としてもいつも刺激を受けている方です。南後さんご自身も色々な方に影響を受けていると思いますが、その中の一人の吉見俊哉さんは、もともと生産技術研究所の原広司先生のところで研究生をされていて、それもあって、建築や都市のことと社会学を掛け合わせながら独自の論点を築かれています。南後さんは、まさにその系統を一番色濃く受け継ぐといいますか、南後さんご自身も都市や建築のことをよく知りつつも、それを社会学の目線で切り取るということができる、この世代では唯一無二の方です。 そういう意味では、私も生産技術研究所にいますので、従兄弟のようなものだというふうにも思っていますし、私は物質的なところから建築や都市を見るのに対して、南後さんはそれを社会学的な視点で切り取る。でも本当はその両方がないと、実際の建築や都市というのは作れないと思いますので、まさに今日のこの配置は右目と左目という、複眼的に物事を見ていくというようなものにできればなと思っています。

小南2011年の東日本大震災のあと、建築業界においては、コミュニティのあり方について多く語られるようになりました。一方で、2020年以降はコロナによって、逆に一人ということをもう一度考えなおそうという流れがありました。この『ひとり空間の都市論』は、ちょうどその間に位置づくようにして書かれた本だと思いますが、南後さんは都市社会学やアンリ・ルフェーブルを研究してきたなかで、どのようにこの「ひとり空間」へとたどり着いたのでしょうか。

南後本の中で黒沢隆さんの個室群住居の話をしていますが、実はここに載っている図面は、僕が一時期賃貸で住んでいた住宅の図面です。僕が上京したのは大学院からで、単身で上京し、24時間営業しているようなチェーン店とかも利用してきたという、実体験でもあるひとり暮らしを通じた都市への向き合い方をどう言語化するのかというモチベーションがありました。
 それから本が出た2010年代ということでいうと、メディア環境の変化によって空間の経験のされ方とか、空間の形作られ方がどう変化しているのかに関心を持っていたんです。2010年代には、スマートフォンやソーシャルメディアが普及して、この本の中でも「中間空間」という書き方をしていますけれども、モビリティと結びつきながら、移動する先々のカフェなどで、スマートフォンやノートPCを使って、見えない仕切りを立ち上げるということが徐々に起きてきました。このような2010年代ならではの都市風景を記述する上で、「ひとり空間」が時代を切り取る一つのキーワードになると思いました。
 ひとり空間のあり方は2010年代に今話したスマートフォンやソーシャルメディアとの関係によって新たな変化を遂げました。さらにコロナ禍において、例えば感染症を防ぐためにひとり空間を作るということが世界中で見られるようになって、そのこと自体が、場合によっては国や地域の分断を生むことにつながりました。仕切りというのは他者とのコミュニケーションを遮断するというメッセージを持った装置でもあります。
 コロナ以降にはコロナ以降のひとり空間のあり方がある一方で、江戸時代から江戸では単身者がかなりの割合を占め、その人たち向けの飲食店や寝泊まりする場所として屋台や長屋がありました。都市とひとり空間の結びつきというのは現代だけの現象ではなかったのではないか、それがどう歴史的かつ社会的な変化とともに姿や形を変えてきたのかということにも関心を持っていました。

川添ひとりの意味が、コロナで変容しましたね。まさにこの本が書かれた頃というのは、ひとりの状態もあれば、みんなの状態もある中での、割と積極的、もしくはやむを得ず、状態としてのひとりをどうポジティブに書き出そうという前提だったと思うのですが、コロナの間のひとりというのは、どちらかというと政策的というか、あの頃は満員電車に乗るのもなんか怖い気もしましたし、一人でいなければいけないというような、前提としてのひとりですよね。コロナ後のひとりは、コロナ前のひとりと、同じ状態に戻れるのだろうかという点については、学生とも議論しました。つまり、ひとりが強要された後の時代は、ひとりでいることの捉え方が以前ほど前向きにはひとりを捉えられなくなっているのではないかというような気がします。

南後まず前提として、「ひとり」という言葉自体がすごく多義性を持っていて、かつ、漢数字でも算用数字でもよいのですが、「一」という文字を使いたくなかったのは、一人という言葉がすごく暴力性を持つ言葉だからです。数字は統計上の中立的なイメージがあるかもしれませんが、この本ではほとんど使っていません。なぜなら、「ひとり」のなかには、ひとりでいることを強いられている人もいるし、例えば孤独死の問題であるとか、無縁社会の問題であるとか、高齢者のひとり暮らしの人たちなど、さまざまな人がいるということが覆い隠されてしまうからです。
 コロナ前と後では、モビリティに関して、「移動する自由」と「移動させられる不自由」という問題が浮上しました。コロナ前というのは、どちらかというと移動できる人は、強者だったと思うんですね。例えば建築家のように、世界中でプロジェクトを展開している人がまさにそうで、世界中を飛び回っている。海外旅行に行くということもそうですけれども、そのような移動するという選択肢を持っている人たちが強者とされてきました。それに対してコロナ禍では、どちらかというとホワイトカラーの人たちとか、自宅にいることのできる人たちがむしろ強者で、エッセンシャルワーカーと呼ばれている人たちや建設現場で働いているブルーワーカーのような人たちは、移動したくなくても移動せざるを得なかったわけです。 そのような移動をめぐる自由・不自由の関係性が大きく変わっていったということが、ひとりを取り巻く状況としてもあったのではないかと思います。
 もう一つは、僕たちも大学教員としてオンライン授業などを経験してきましたが、コロナ禍と同時進行で起こってきたこととして、例えばZoomに代表されるような遠隔のツールによって、これまで繋がらなかったひとり同士が、物理空間では繋がれないんだけれども、情報空間では繋がることができるようになりました。それらが集合することによって、音楽ライブなどの群衆空間も情報空間上で作ることができるようになりました。
 ひとり空間もコロナ禍を経てみると、いくつかのパターンに類型化できます。大きく5つのパターンに分けることができ、1つ目は、「専有型」です。個室付きの住居や個室付きのホテルというのは、近代都市の誕生やプライバシーの概念とも結びついた、自分でひとりの空間を占有できるタイプです。2つ目は、「半占有型」です。例えばネットカフェやカプセルホテルなどは、音が聞こえますし、完全には仕切られていません。3つ目は、「共有型」です。BOOK AND BED TOKYOなどがその例にあたるのですが、ソーシャルメディアによってあらかじめフィルタリングされた人同士が集まり、そこで会話がなされるとは限らないけれども、同じ趣味嗜好やライフスタイルを持っている人たちが同じ時間と空間を共有する。そういった「みんなでひとりでいる」空間です。コロナ禍以降は、住宅内に間仕切りを作るとか、最近の新築のマンションなどにも、書斎スペースがほぼデフォルトでついています。近くにいる人と隔てる空間という、遠隔の反対の「近隔」という造語を用いるならば、そのような「近隔型」が4つ目です。これは音を遮断したり、ウイルス感染を防ごうとするものです。最後の5つ目は、「離接型」という、離れた人とオンラインの情報空間を通じて接続していくというタイプです。
 また川添さんがおっしゃったように、物理的な身体としてはひとりでいるんだけれども、常時接続のオンラインで繋がっているため、逆説的にひとりになるのが難しいといったことが生じていて、だからこそ、ひとりでいる時間を提供するサービスやプロダクト、あるいは孤独ビジネスが生まれてきているというのが、コロナ禍以降の現在進行形の状況だと思います。

川添おそらく、この2人の議論の間には常に空間というのが多分あって。それを建築の側ではどう作るか、もしくは社会学では空間がどう人の関係に影響を与えているかっていうような見方をしていると思います。南後さんの本でも、中間空間というお話がありますが、『OVERLAP』はまさにその空間と空間の重なり、同じようなものをそれぞれの見方で見ています。一方で、その違いが何かというと、この中間空間、例えばホテルや駅など、時間と時間の間にあるものや、一番冒頭にある「孤独のグルメ」も、その空いている時間を空間化しているのではないかというような南後さんのお話がありましたが、『OVERLAP』で書こうとしていたのは、どちらかと言うともっとハードな意味での中間と言いますか、建築と都市の間にある場所が大事というようなことを言っていて、もしかしたらその中間という言葉が多義性を生んでいるのかもしれませんが、何と何の中間を見るかというところに、実はそれぞれの見方の違いがある気がします。一つの連続した時間、それは人間の生活を一つ連続した総体と見る時の中間としての場所、それとハードな連続としての都市の中間を見るという時には、『OVERLAP』で書こうとしているようなものがあって、蓮實さんが「ポストモダンと言っている間はモダンの中だ」という名言をおっしゃっていますが、ポストモダン、ポストモダンと議論しているうちは、結局モダンの中にしかいないというのと同じように、中間空間や中間領域と言っている間は、それは主役にはなれないものを2人は扱おうとしているのかなと思います。準主役というところが、もしかしたら共通しているのかもしれませんが、そのアプローチの違いについては、読んでいておもしろかったです。

南後ここからは僕の『ひとり空間の都市論』と川添さんの『OVERLAP』という本を、まさにオーバーラップさせながら議論を展開するため、川添さんの本を読んで感じたことについて3つほど話をさせて下さい。1つ目は、川添さんは建築と土木の領域をオーバーラップしながらこれまで研究をされてきていて、東大の景観研のプロジェクトを含め、建築物単体だけれども、その中に異なるスケールのものが多重的に包含されている、そのような建築への関心が、今回の本の中でも顕著に現れていると感じました。一方で、そういった空間的な重なりだけではなくて、僕のような社会学者であるとか、異分野とのオーバーラップが積極的になされている点が、この本を読んでいて2つ目に感じたことです。3つ目は一番僕自身が今日お話したかったことなのですが、他者に対する態度、他者性への想像力が強調されている点です。いわゆる空間を仕切ったり分断したりするものではなく、重なるものとして捉えていますよね。僕たち2人ともオランダに留学していますけれども、オランダに対してクリシェ的に使われる言葉で言うと、他者への寛容性とか、移民に対する寛容性とか、そういう水平的な関係性も、他者に対する態度です。建築家の作品集や書物には色々なものがありますが、建築や都市をめぐって、他者性をポジティブな価値として捉えようとする建築家は少ない中で、他者性を重視して書かれていた点が、とくに印象深かったです。
 さらに、オーバーラップということで言うと、僕自身も社会学をベースに研究していると、空間をいかに経験しているのかとか、都市のライフスタイルの中で空間がどう受容されているのかということに偏った内容にとどまりがちだったんですけれども、空間の使われ方や経験の仕方について解像度を上げて研究しようと思うと、その空間がどう作られているのかとか、それがどう生産され流通しているのかとか、それがどうマネジメントされているのかとか、そういったことも研究しなければいけませんし、そちらにオーバーラップする必要があります。ですから、僕の本では、「ひとり空間」というタイトルが示しているように、ひとりという人間とかコミュニケーションなどの問題だけではなくて、それらと空間を掛け合わせるというか、オーバーラップしていくということをしました。

『ひとり空間の都市論』と『OVERLAP』の間にある、他者性というトピックの先に浮かび上がってくるテーマって何かなと考えた時に、例えばソーシャルミックスが挙げられます。ひとり空間の多い東京のような都市では、異なる階層の人や、異なる世代の人と交わる機会って少ないですよね。日本のひとり空間の多くは、30分いくらなどのように課金空間化されています。お金を払うことによって、そこにいる権利を買って安心感を得ているようなものです。日本の公共空間は、ヨーロッパに比べると、無料でひとり居心地よく居られる場所が少なく、このことは日本のひとり空間が課金空間化された商業空間に偏っているということと対の関係にあると言えます。川添さんは今回この本の中で、このような公共空間のあり方を問題視されていますが、異なる階層や異なる世代の人たちをどう混ぜ合わせていくのかについて、ハードの側面だけではなく、ソフトや政策の側面も含めて考えていくうえでも大変示唆に富んでいました。

僕はひとり空間を、「有料・無料」と「間仕切りあり・なし」の4象限で整理しました。川添さんは都市の中の場所を、「見える・見えない」と「行ける・行けない」という4象限で整理していたので、この点についてもオーバーラップさせて考えると面白いと思います。例えば、日本のひとり空間は「見えない・行けない」場所としてあることが多いというのが、僕と川添さんの本の内容をオーバーラップさせて考えると浮かび上がってきます。「見える・行ける」場所、「見えない・行ける」場所というのがひとり空間としてどうあるのか。さらに川添さんが指摘する、気配のデザインとオーバーラップさせると、他の人の気配を感じられるひとり空間のあり方はどういうものなのか。そんなことを考えると話に広がり出てくるなと思いました。

川添今お話にあった他者性ということをベースに、例えば『OVERLAP』の中ではいい都市ってなんだろうという時に、何か出会えそうな場所がいい都市なのではないかと書きました。『ひとり空間の都市論』の中で、建築の人たちに対して、南後さんから警鐘が鳴らされているのではないかなと思ったのは、まさにこの他者性についての議論で、遭遇可能性から検索可能性にシフトしているのではないかというような指摘がありましたよね。この話はまさに他者性や、出会えそうなことの話とまさにリンクしてくるなと思っていて、つまり都市では、もともと誰かに会えるのではないかとか、とりあえずハチ公に集合すればそこに誰かいそうという遭遇可能性が都市を満たしていたのに対して、例えば食事に行く時も、最初にwebで検索してから行く、そうすると検索にのっかってこないと、それはないものと同然で、つまり遭遇する可能性よりも検索することによって何かが生まれてくる都市になりつつあると書かれています。建築や都市といった物理空間を扱う人が、そこに何かできることがあるはずだと、南後さんは警鐘を鳴らしているのではないかと個人的には捉えています。つまり、その検索可能性が高い場所が、都市の中で生き残っていく場所だとすれば。 そこに物理空間の意味が入る局面はもはやないのか、それとも、せめておしゃれな内装ですというような部分で、若干検索可能性を高める小道具に空間が分解されてしまうのではないでしょうか。

南後物理空間と情報空間を掛け合わせながら考えるという話の延長線上で言うと、例えば、今の若い人たちにとってのたまり場として、渋谷のMIYASHITA PARKがありますが、インスタグラムやTikTokを見た若者たちが集まってきています。そうすると、ソーシャルメディアによってフィルタリングされた似た者同士が集まることで、同質性が高まっていきます。ソーシャルメディアによる仕分けという、かつてゾーニングとして都市計画や建築計画が担ってきた役割を、情報空間が担いつつあります。ですから、このような動向を踏まえた上で、いかに建築やパブリックスペースをデザインするのかという問いは、当然あってしかるべきだと思います。広告代理店系の人たちとかであれば、集客が重要ですから、よりインスタの画角に合うような飲食店を作るなど、そういった話になるかもしれません。ただし、検索可能性や情報空間上のフィルタリングは、どちらかというと視覚的な経験の話で留まっていると思うんです。ですから、物理空間の強さというのは、触覚や嗅覚であったり、素材のディテールであったり、物質性であったり、その場所に行かなければ体験できないもの、しかも建築がそうであるように一回性を持ったものだと思います。そう意味で言うと、情報空間上で起きていることを視野の外に置いて、それは別の次元の話ですよねと仕切りや境界線を設けるのではなく、情報空間上で今起こっていることが、現代社会で生活している人たちのベースとしてあって、それらをどう建築に絡めていくのかが問われますよね。僕のことも『OVERLAP』の中で取り上げていただいて光栄で、「社会学者の言説も、建築家にとっては多くの気付きが得られます」と書いていただいているのですが、ではその気づきが川添さんの建築の実践や、都市への向き合い方にどうフィードバックされていくのかについて伺いたいです。

川添付き合いももう10年ぐらいになるので、色々な場面でよくお話ししているのですが、割とよく一緒にプロジェクトしましょうよと言うんですよね。例えば、各地の地域計画なども最近手がけるのですが、まちの計画をするときに、社会学者の人が入ったらとても頼もしいと思うのですが、いつも「うーん」と言われるんです笑。社会学者は社会には直接コミットはせず、起こったことを分析していくのが社会学者のスタンスですよね。建築の人は最後、形に落とせるのは自分たちしかいないと、少し思い上がりかもしれないけれども思っているところがあるので、なぜ目の前にフィールドがあるのに距離を置けるアプローチを取れるのかがいつもおもしろいと思っています。それに関連すると、本の中でもルフェーヴルの言葉を借りて、「空間とは社会的関係を生産する媒体である」という書き方をされていて、「え、そうなの?空間ってそこにあるんじゃないの?」と思ってしまいました。語弊を恐れずに言えば、別に社会的関係を生まなかったとしても、空間は空間なんです。たまたま空間があって、もちろん良好な社会的関係を生んでほしいけれども、仮に社会的関係を生まなかったとしても、まずは空間がそこにあって、その後に社会があるとさえ思っていて、社会的関係を生まない空間は、もはや対象ではないのかなとも思ってしまいました。でも、そこに見方の違いというか、世界の接し方の違いがあるのがすごくおもしろいと思います。一方で、南後さんに「次の社会はこういう社会です」と言われると、それでいいのかなと思う気もしますし、そういう世界へのアプローチの違いそのものがいつも勉強させてもらっていますし、おそらく建築家と社会学者のそもそものスタンスの違いであって、どちらも不可欠だと思います。根源的に混じらず、同一化しない意義はそこにあるような気がしています。

南後頭の中で描いている空間や抽象的な空間と、現実の使われ方や経験のされ方との間に生まれるギャップに、ルフェーヴルをはじめとする社会学者は関心を寄せてきました。 物理的な空間でもいいですし、抽象的な空間でもいいんですけれども、それが社会のあり方を方向づけたり、住宅のあり方が家族の振る舞いや規範を作っていくベクトルもある一方で、社会のあり方や家族のあり方が、空間の使い方やあり方を書き換えていくという、両方のベクトルがあります。僕はその両方のベクトルの関係性を、さらに第3の視点から見たいと考えています。

また、社会学者の関与の仕方に関しては、僕も今後どうすべきか、色々考えることがあります。今度の大阪万博やその前の東京オリンピックの時も、さまざまな報道があるわけですが、建築家の人たちが考えていることが時にネジ曲げられて報道されたり、しかも大体が予算の問題や数字の問題に還元されがちです。ジャーナリズムの仕事かもしれませんが、建築と社会の関係から見たときにどういう政策の問題があって、何がメディアでうまく伝わっていないかについては、きちんと検証しなければいけませんし、そのような検証をすることが、今後の新たな公共建築のプロジェクトを展開するうえでの判断材料を提供することにつながるはずです。

社会学では、シカゴ学派が都市社会学という分野を切り拓いて、そのリーダー格にロバート・E・パークという人がいるんですけれども、その人は政策にはコミットしない、つまり価値中立の立場をとっていました。しかし最近シカゴ学派の流れをもう一度勉強し直していると、パークの弟子筋たちは少し違っていて、政策に間接的に関与するという人たちもいるんです。彼らは、例えばこれまでの制度設計のうち、どこがまずかったのかを検証して、この部分を変えていけば、どういう変化があるだろうということを提言していました。これまでの制度設計を支えている理念や、そこにどのようなイデオロギーやバイアスがあるのかも考察の対象に含まれます。社会学者はどちらかというと、これまでの社会の姿がどうであり、それが現在どのようなものとして移り変わりつつあるのかという、社会の変遷の記述を得意としてきました。今後の社会の変化を考えていく上で、それを特定の方法に導くとか、そこまで行ってしまうと危険ですし、例えばかつての未来学会が予見した未来のようなものを描こうとは思いません。ただし、パークの弟子筋がそうであったように、政策に間接的に関与することや建築・都市計画や地方の地域計画に対しては、これまで役割分担として線を引いていたところを、今後はもう少しオーバーラップして仕事をしていければと思っています。

川添前回お話した加藤耕一さんも、建築の歴史の専門の人ですけれども、最後は俺たちも理論を提唱すると言っていました。何のために歴史があるのか、というような話をしていたら、理論というものはもちろん時代によって違うけれども、そこから先の話もしていかないと、単純に過去の話を整理しているだけでは、もう立ち行かなくなるのではないかとお話されていたのですが、それともまさにシンクロしていて、どう分野が前を向いていくかというようなお話は、われわれも非常に心強いというか、建築と社会の関係そのものが成熟してくると思います。

小南先ほど他者性の話が出ていましたが、それをひとり空間の話に当てはめると、それぞれ一人一人の空間みたいなものが、気配を生むのではないかと思います。川添さんはどのようにお考えですか?

川添間仕切りのない無料の公共空間の中で、どうひとりが成立するかという話が、おそらく私たちがやらなければいけないことですよね。『ひとり空間の都市論』でも「日本の公共空間では、みんなが優先され、ひとりが居場所を見つけることは難しい」とも書かれていましたが、これは本当にそうだなと思いますし、二人とも「賑わい」に関する批判的な眼差しは共通しています。ひとりでいるということと、一方で公共空間の中では過度に賑わいが召喚されると言いますか、賑わい広場・ふれあい空間・ワイワイパークなど、常に多くの人が楽しそうにしている、そういう光景が前提になっている違和感があります。実際多くの人がそんなにワイワイしたいわけではないのではないかという気もしていて、だからこそ、そのデザインボキャブラリーが考えられてないのは、私たちの分野がまだやるべきことが残っているということだと思います。ひとり空間がたくさんできるよりも、ふれあいパークがある方が、周りのテナントの賃料も上がっていくし、再開発事業者としては、みんなでワイワイしていてくれた方がいいですよね。ロンリーパークよりもワイワイパークの方が良いですから。そのように、割と分かりきっている構図のはずなのに、それを乗り越えるデザインが作れていないのは、建築家の怠慢だともいうことができます。自分を含めて多くの建築家がそのロジックから抜け出せずにいる。私たちは空間を作ることがすべてです。事業者の人がここはワイワイパークが良いと言っても、いやいや、こういう空間が良いんですよ、あそこにできているああいう空間が本当はみんなが行きたい場所なんですと言えるものを、これから作っていかなければいけない。その時に気配ということがキーワードになると思っていて、他者性をどう感じるか、そのためのデザインが私たちの次の課題だと思っています。

南後他者性という話でいうと、『ひとり空間の都市論』にも『OVERLAP』にも両方、都築響一さんの『TOKYO STYLE』の表紙が掲載されていて、都築さんが撮った、それぞれの部屋のインテリアには、住人の趣味やライフスタイルの痕跡、まさに気配が感じられます。都築さんは写真家だから特別に部屋へ行くことができていますが、それらは川添さんの言葉を使えば、「見えない・行けない」場所です。でもこの表紙を見た時に、今日の話を踏まえて重要だなと思うのは、むしろ写真のフレームの外側に広がっている、そこに住んでいる人のライフスタイルへの想像力であり、そこでのひとりのあり方、あるいはひとりとみんなとの関係性だと思います。そこに住んでいる人のライフスタイルは住宅の内部に完結しているわけではなく、どのような都市生活を送っているのか、そこではどういった建築デザインが施されているのか。
 現代の都市と建築を考える上で、ひとりで居続けることも、みんなで居続けることも、どちらも必ずしも居心地がよくないわけですよね。そう考えれば、ひとりでいる状態とみんなでいる状態が、どうスイッチング可能であるか、どう選択可能であるとかといったことが空間的にも重要になってくるだろうし、そのことを一つの建築の中で実現するためには、これはもう建築設計の領域でしょうが、視線の向きをどうコントロールするかとか、音をどう壁の遮音や向きをもとにコントロールしていくのかという、細やかなデザインの話になってくると思います。どうしてもみんなを重視するワイワイ系の空間では、家族や友達のグループが主役で、ひとりの人たちが排除されがちです。そうではなく、ひとりとみんなの状態が選択可能である条件を備えた建築の事例が増えてくるといいなと思います。

小南それこそが社会関係資本の蓄積みたいになっていくっていうことですよね。そのように我々が思う一方で、南後さんのお話をふまえて考えると、歩きスマホや電車の中で化粧するというのは、今に始まったことではない。何が問題なのかというと、その状態がかなり優位に立っていることなのかなと思います。というのは、SNSやモバイルによって、移動する状況の時にひとりになることが可能になるというのが常態化していて、南後さんの言葉で言うと、仕切りの方法というのをもたないままきてしまっているのかなと考えています。それは先ほどの話であったような検索可能性の話になると思いますが、その方法を理解しないまま使うから、大衆に良いと思われているものを良いと思うようなものになってきて、検索できないものは無いものと思うようになってきているのだと思います。一方で、SNSの時代にあって、検索方法を知ってさえいれば、無限にものが落ちているということがあります。

南後今いくつかの論点を出してもらいましたが、最初の社会関係資本ということで言うと、ひとりにも強いひとりと弱いひとりがいて、社会関係資本をどんどん蓄積していけるタイプの人と、そうではないタイプの人がいます。後者の弱いひとりの問題をどう考えていくのかが、課題だと思います。あとは、ソーシャルメディアが生まれる以前から、例えば本を読むということがひとり空間を見えない仕切りによって立ち上げる行為であるということに関しては、社会学だとアーヴィング・ゴッフマンというアメリカの社会学者が、「離脱」という言葉で、その場の相互作用から一時的かつ精神的に距離を置くことについて議論しています。ウォークマンが発売された70年代終わりから80年代にかけても、周囲から音を遮断して離脱し、移動しながらひとり空間を維持するということは行われてきました。では現代において、検索可能性の限界として、ひとり空間のあり方をどう考えていくのかという論点は興味深いですね。課金空間化された商業空間のように、与えられたり用意されたひとり空間ではなく、ひとり空間として自在に使いこなしたり、読み替えたりすることができる公共空間の可能性について考えることが重要だと思います。

会場質問『ひとり空間の都市論』の中で、ダイニングの都市への拡張という話があって、それを読んだ時に、リビングの拡張は進まないのかと疑問に思いました。川添先生がおっしゃっていた、無料公共空間で他者を感じることがリビングの拡張の意義なのかなという気がしていて、家にこもっていると確実にひとりなので、ただそれを拡張したい時が自分にあるような気がしていて、実際公園に行きたくなるというのもそういうことだと思うのですが、いかがでしょうか。

南後昔は銭湯やコインランドリーがありましたね。リビングの拡張としては、皆さん大学院生や大学生も、例えばカフェを自分の勉強スペースとして使ったり、最近ではコワーキングスペースができていたりとか、リビング自体のあり方は各家庭によって違うと思うので一概には言えませんが、リビングの拡張は至るところで起きています。リビングの延長についても、有料・商業空間が多くを占めることに加え、個人におけるリビングの拡張と、家族や小グループにおけるリビングの拡張が、どう交わる、交わらないのか、そのあたりが大きなテーマかなと思います。

川添南後さんは個人として社会学と建築とオーバーラップしながら活動されていて、私たち建築の人は南後さんにご相談するようにしています。しかし全体として見れば、建築分野が社会学のあり方を真剣に学んでこなかったのではないか、という強い反省があります。建築は本当に社会をつくれるんだろうかという懸念が、今日の会のモチベーションだったともいえます。もちろん一回では全然足りないんですれけれども、実際に社会の中で物理空間に携わる人は、社会を体系的に把握しようとしている人たちともっと相談しながら作るべきで、今日のような会はやはり定期的に行うべきですね。

南後由和
南後由和
(社会学者・明治大学准教授[現 法政大学教授])