私たちの未来

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第5回『構造デザイン講義』『環境デザイン講義』『形態デザイン講義』×『OVERLAP』『EXPERIENCE』
内藤 廣(建築家・東京大学名誉教授・多摩美術大学学長)×川添善行
2024年7月16日[於 東京大学工学部1号館15号講義室(KAJIMA HALL)]

川添この企画も、今日が最終回になります。本日は内藤廣さんをお迎えして進めていきたいと思います。1月に『OVERLAP』と『EXPERIENCE』という二冊の本を出版させていただき、それに続いて出版記念イベントをやりましょうということになりました。ただ、普通の出版記念イベントだと、私のことを褒め称えて終わるだけで、何の面白みもないので……。

内藤今日はそのつもりで来たんだけど(笑)

川添ありがとうございます(笑)。これまでこの連続対談は、書店など色々な場所で開催させていただきましたが、今回はもう一度大学に戻ってきました。内藤さんは数多くの本を出されています。『OVERLAP』が大学院の講義をベースにした本で、『EXPERIENCE』は若手研究者たちとチームを組んで訳した本ですので、いずれも大学の議論から生まれてきたものということができます。その意味では、内藤さんの『構造デザイン講義』、『環境デザイン講義』、『形態デザイン講義』の三冊とも講義から生まれたという共通点があります。
 ちょうど2011年の7月12日、今から13年前にちょうどこの同じ場所で内藤さんの最終講義がありました。多くの方はご存じかもしれませんが、当初予定していた3月11日に地震がありました。そのまま延期になって、7月12日に実施したという経緯があります。2011年は個人的にも節目の年で、ちょうどこの年から川添研究室としての活動が始まりました。お手伝いさせていただいた鹿島出版会の『若者たちへ』の中でも述べられていますが、人は誰かから影響を受けるのは当たり前だし、それを無理して隠そうとすると、だんだん歪んでいってしまう。けれども当事者としては、教わったことを冷静に捉えることも重要です。自分で何かを始めた人は、常にその師の存在によって、自己が形成されていることはもちろんわかるし、ただ同じことをやりたくないという葛藤もあって、そういう影響の中で、みんながそれぞれの体系をつくっていきます。私がつくりかけている体系を冷静に見ていると、改めてもう1回原点に帰ってきたなという感じもあって、それで最終回は内藤先生にお願いしたいと思っていました。

内藤内藤です。よろしくお願いします。 厚い本が2冊ということで、読むのが大変でした。講義をまとめたということで、先生業も大変だなというのと、東大で教壇に立つというのはこういうことなのかなとも思いました。 ちゃんと教えなければいけないという意識がすごく隅々まで行き渡っているというか、間違っていることを教えてはいけない、ちゃんとしたことを教えなくてはいけないという、そういう意識が『OVERLAP』には結構あって、皆さんこのくらいのことは勉強しましょうね、ということが書かれている気がします。そういう意味では、良い教師になったのではないかと思います。ただ、以前はもっと面白いやつだったのになという感じがあって(笑)、ここから先は、前段のお約束はちゃんとやったので、もっと好き勝手やってもいいんじゃないかなというのが私の印象でした。自分もそうだったのでわかりますが、知らないうちにいろいろなものを背負い過ぎているのかもしれないよ。

川添ありがとうございます。今日は景観研究室の中井祐先生も会場にいらっしゃっていますが、篠原修先生も同じようなことをおっしゃっていました。「君の講義を聞いている学生は幸せだろう。ただ君は都市とはどういうものだと考えている? 21世紀という時代をどう考えている?」という問いかけをいただきました。

内藤この本はね、読んでちゃんと理解しなければいけない内容だね、素養として。本当だと学部で身につけなければならない知識で、東大の場合は進学振り分けがあって、専門教育の時間が足りなくなることが問題なのかもしれない。だから、大学院でああいう講義をせざるをえないというのもよくわかります。やらなければ、何も知らないで社会に出てしまうので。そういう意味では、ちゃんと勉強した方がいいと思います。

川添最後に「気配のデザイン」という章を書いたんですけれども、編集の渡辺奈美さんともこの「気配のデザイン」というところが要点だよねと最初から相談していました。『EXPERIENCE』の中でも「雰囲気」というものを扱っていますが、重要な論点だったと思います。

渡辺鹿島出版会の渡辺と申します。最初に『EXPERIENCE』の編集を進めていて、その後川添先生から『OVERLAP』のお話をいただいて、同時刊行を意識して進めておりました。建築を考える上で「気配」を考えるという思考はとても面白く、捉えがたい「気配」にどこまで踏み込んで読者に届けられるか、というところが肝だと川添先生と話していました。

川添実際にはない、ありそうだけど掴めないものをどういうふうに解き明かしていこうかというところは、割と最初からの狙いではあって、それが単なるわかりやすいオブジェクトはなくて、ある種の空間の中にあるはずだし、この本の中でも、他者性のある空間ということを書いています。設計者がすべて自分でコントロールしつくす空間ではない、もう少し他者の存在が入り込むような空間はできないだろうか。そのとっかかりとして、建築と都市が重なり合うところには外からも空間が入り込んでくるので、そこには設計者がコントロールしていない「気配」というものが生まれうるのではないか。リノベーションという言葉が一般化し、特に若い人が惹かれているのも、全部が誰かによって支配されていない、古い建物の持っている、それこそ名残のようなものがおそらく色々な人の心に入り込むからだと思います。そういうことを『OVERLAP』で書こうとしました。

内藤気配って変な言葉だよね。気を配るんですかね? 川添さんが考えている今の気配というか、建築は分かったんだけれども、社会の気配というのはどんなものですか? むしろそっちの方が気になるよね。
 要するに、建築にまつわる気配の話、でも外と連携しなければいけないとか開いていかなければいけないという話もしているわけだから、今の社会に対して今日来ている若い連中はどんな気持ちなのか、というのも含めて気配ですよね。それはどんなものだと思っていますか?

川添実はちょうどこの直前まで、羽鳥達也さん、門脇耕三さんをゲストに迎え、スタジオ課題の最終講評をやっていました。川添スタジオは、「新しい首都の国会議事堂」というテーマでやっていたんです。この前の都知事選ありましたけれども、若者が政治参加しないというような風潮があって、ただ国会議事堂をもう一回設計するといった時に、そもそも国会の仕組みはどうなのというところから議論しました。鳩山紀一郎さんもゲストで参加してくれました。例えば、参議院はどうして必要なのか。もともと貴族院があって、それが衆議院と対をなしていたので二院制になったんですけれども、今はほとんど同じ政党政治なので、与党が両方とも過半数をとってしまうと、二院ある意味がないのではないかというところから議論して、新しい議会のあり方を提案したり、直接的に国民が参加するような議会を考えたり。それぞれ色々な提案があって、もちろん最後は建築なので、それがどういう空間になっているのかというところまで考えました。すると、スタジオには10人ぐらいの学生がいたんですけれども、それぞれの提案が一つ一つ見るべきものがたくさんあって、こんなにも建築をきっかけに国の将来というのを幅広く考えうるのだと気づきました。与えられたものではない、自分たちが考えたらこうなるよねという姿を真摯にというか、自分の本心から提案していたものがたくさんあったんですけど、それが現実の社会ではなかなかできないですよね。今回の国会議事堂は、学校の課題だからできるんですけれども、今現実の社会の中でそういうことを言う人なんてほとんどいないですし、これだけ情報化が進んだと言われていても、そういう話がほとんどできなくなっている状況を踏まえると、あきらめというか、自分が何かをやっても、社会は変わらないという、それが今の気配なのかもしれません。

内藤若い諸君に何を語れるか、なんてことをやはり僕はいい歳だからとかく考えるんですよ。遺言みたいなものですね。そういった時に、よく思考停止していたところをもう一回起動させるようなことがあって、「そうかぁ」と思うんですよ。例えば、この国を植民地国家だと考えてみる、という思考もあるかもしれない。つまり僕らが政治的に何かしようと思っても閉ざされている。NHKでもやっていたけれども、沖縄のコザ騒動の話でも、日米地位協定がある中で本当に独立した国家ですか?という話がありますよね。われわれは自由を謳歌しているみたい、何でもあり、のように見えるんだけれども、実は東京の空の半分は米軍の横田基地の空域がかかっているとか。そういうのを見ないことにしているわけです。その上で、同じような話が都市計画の中にも埋め込まれているし、建築はどちらかというとその埒外に置かれているようなところがある。でも、3.11の復興に携わると、いろいろな諸制度というのは、1955年から60年ぐらいにできた法律の中に全部埋め込まれていいることが分かる。ある種の自主性みたいなものが持てない社会をつくってきた中で、建築もそのことと絡めないと本当のところはわからない。意図的に政治的に絡めるというのはおかしいんだけれども、例えばウクライナがあんなふうになっている、ガザ地区があんなふうになっている、それからアメリカは分断されている。そういう話と僕らの日常は全く無縁だという中では、若い人とちゃんと話ができないのかなと思っています。どうつなげる回路があるのかというのが考えねばならないことです。そこを断たれている気配を若い人が感じていて、ある種の無力感を感じる源でしょう。同時にそれが建築や都市を語る時の切実さがない理由かなというふうに思うんです。そこのところを大人たちは、できるだけ引っ張り出してきて若い人につなげないと、若い連中は何も知らずにこの先行っちゃうのかなという心配がありますね。なので、変な文章を書いていて、出す場所もないかもしれないけど、「植民地国家に生まれて」という文章を書こうかと思っています。それは事実そうなので。僕がそう言うとみんなすごく違和感を感じると思うんですけれども、それ自体がこの社会における意図的に作られた無意識ですから、よく見ましょうよ、ということを言いたいのです。深刻な話になってしまったので、もう少し軽い話にしましょうか。

川添ちょうど先ほどまで、学生たちともそういう話をしていました。人が集まる場所の方がいいとか、建築は開かれている方がいいとか、そういう安易な正義感に従っているだけだと建築はつくれない。一方で、そういうのを切り分けて建築がやれるのはここまでだからとか、私たちの業務範囲はここまでなのでというように、切り分けをする方が生きやすくて、そういうのがいわゆる器用というか、東大的というか。ただ、そういうことをしないと不器用で人生を損しているというような気配があって、現在はその風潮が一段と強いですよね。就職するまで浪人したら減点になるとか、みんなそんな息苦しい世の中で暮らしていますから。

内藤一回壊した方がいいよね。みんなせっかく頭が良いんだから、いろいろなことやろうと思ったらできるはずです。それはやるべきだと思うんですよね。昔勤めている時に、「東大新聞」がインタビューに来て、「若いやつらに何か言いたいことありますか?」と聞かれて、「自分が他人より優秀だと思ったら人の歩いてない道を歩け。他人よりも劣っていると思ったら、誰かが歩いた道を行け」というメッセージを出したことがあります。それを学生諸君がどう受け取ったか知りませんけれども、でも僕はそういうやつらがたくさん出てきてほしいなと思っています、その方が面白い世の中になるし。その代わり、捨て身じゃないといけませんけどね。親の反対とか、周りからどうとか、いろいろあると思いますけど、優れているんだったら自分なりの考え方で自分なりの世界をつくるべきだと僕は思います。仮にお役人になるにしても、クリエイティブであるべきだと僕は思います。役人こそクリエイティブであるべきだし、僕がこれまで会った優れたお役人は、みんなすごいですよ。限られていますけど、そういう人たちはなまじの想像力ではない。ともかく、そういうやつがたくさん出てくるといいと思っています。

川添さんの本の話に戻すと、この二冊のうち一つ、マルグレイヴは教養として真面目な本ですよね。でも、教養としては身につけなければいけないけれども、そこから先は示してくれていない。ある種のアカデミズムと建築のクリティックという狭い世界の中での引用があって、それに生命科学の話を割り込ませたりして、新しいところを切り開こうとしているんだけれども、マルグレイヴは生命科学や脳科学の専門家ではないので、本当にそれが開示できているのかはわからない。この辺りは視点としてはあるんだけれども、建築ってもっとダイナミックだよな、と思っているんだけど。当然マルグレイヴの話も頭に入れた上で、教養としてちゃんと身につけた上で、もっと建築のダイレクトなダイナミズムみたいなものがフィードバックされてこないといけないのかなというふうに僕は思います。それは次の世代が受け止めて考えるべき話だと思うんです。生産構造も劇的に変わりつつあるし、テクノロジーも変わりつつあるし、いろいろなものが、むしろロジカルに構築された後ろ側で、そちらのダイナミズムの方が激しいので、やがてそれは思考的な思弁的な世界も変えていくはずですから、むしろ2つの本を読んだ上で、その後ろにあるダイナミズムみたいなものを若い諸君には感じ取ってほしいなというふうに思います。
 もう一つだけ、先ほどまで事務所で話していた話で、今非常に高いコストになったり、地球環境がどうのという話になったり、建築自体がある種の薄い膜で覆われたみたいな限界がありますよね。少しぐらい変わったことやっても、雑誌に載って嬉しい、ぐらいの話がせいぜいで、そんなものに意味があるのかと思うんですよ。心配していることも含めて言うと、そこにAIが出てきます。要するに工学的な技術も含めた技術を、もっと前に押し進めるべきか、あるいは経済活動の話で、後期資本主義というのをもっと前に進めるのかそれとも現状に留まるのか。このあいだイーロン・マスクがAIを脅威だと感じているという話をしていましたけど、その話を聞いた時に、本当にそれでいいのか、ってと思ったんです。止めないでもっとどんどんやるという方法もありますよね。情報というのはそういうものですから。でもちょっとブレーキを踏んだんですよね。その姿が僕にはすごく保守的に見えたんです。加速主義という言葉があるんだけれども、加速主義はもっとめちゃくちゃな話で、10年前ぐらいからだと思いますけど、アクセル踏んじゃえという話なわけです。そうすると人間が早めに滅びるかもしれませんよね。けれどもこの言葉が最近になってやや復活してきていて、要するにどちらかというと超右寄りの人、それから超左寄りの人の一つのイデオロギーの論点になりつつあるという話を聞きました。つまり、中途半端にオブラートに包んだみたいにして、人間社会そのものがゆっくりと失墜していくという話ではなく、もっと対立を深めることになるかもしれません。けれども、この話は冗談みたいに言っていますけれども、フランスは右寄りになりましたよね。イタリアもそうですよね。右と左という話でいうと、今度アメリカですよね。そうすると、われわれの身の回りで起きている話なんです。アクセルを踏むのとは反対方向、今はなんとなくブレーキを踏んでSDGsとかという話になっていますけど、それとは真逆のそういう話だって出てきます。そうすると、実はそれは建築のあり方や都市のあり方を変えるんですよね。ですから、その議論を実はやってほしい。それは僕が東大で教えていた時から後の話なので、僕が書いた本にはないですよね。たぶん川添さんはわかっていると思いますけれども、シンギュラリティの話も、ひょっとしたらアクセルを踏んだらシンギュラリティはあと10年早くなるかもしれませんよね。生研の第三者評価の委員をやった時に、喜連川先生がランダムアクセス演算を実装しているのを見せてもらって、つくづくそう思いました。

川添建築はなかなかその話にコミットできていないですね。どうして『EXPERIENCE』を翻訳したかに関係しますが、この本のテーマである生命科学そのものは60年代ぐらいから例えばブラジリアにしてもメタボリズムにしても生物へのメタファーなどとして言及されてきていますよね。でも建築家が使うメタファーって、割と概念どまりで、じゃあ森にしようとか山にしようとかって、それはほぼ形態的にそうであるだけであって、本質的な意味で外部の思想を建築に取りこめていないというか、むしろ面白い形態を説明するアナロジーぐらいでちょうどよいと思っている風潮さえあります。そういうものへの違和感がずっとあって、生命科学の知見をどう組み合わせていけるのか、きちんとつなげてみたらどうなるのか、という洞察を行うわけです。マルグレイヴは、ケネス・フランプトンの批判的地域主義を扱った『現代建築史』と並ぶ代表作である『テクトニック・カルチャー』の中での序文を書いています。建築と地域の関係の再構築であったり、テクトニックという切り口であったりと、新しい建築の見方が提示されたわけですが、さらに本書では生命科学という切り口から建築の価値を再構成しようとしています。内藤さんがおっしゃるとおり、そこの中にまだ教条的な答えはありませんが、少なくとも批判的地域主義を読んだ人は建築と地域の関係について考えるようになった。

内藤でも先ほど言った、仮に植民地国家だとしたらみたいな話は地域の話ですよ。露骨な話は沖縄に現れているし、ひょっとしたら別の場所でも現れているかもしれない。よく見れば実は三陸の復興の仕組みの中にもある。おそらく地域の話も、ローカリズムとかリージョナリズムというのはわかるんだけれども、本来はもっと血を流すような話に近い。本気の現場は、もう少しドロドロしているというか、深いような気がするんですが。

川添そういう話に建築がコミットする時って、どちらかというと支配者側というか、コロニアル様式もそうですけれども、いろんな地域で、例えばフランスならフランスの様式をどう定着させるかというところに建築が発現することはあっても、その血を流す側が、建築として形にできるのかというところは、今はまだ限界があると正直感じています。そして、より若い人たちに違和感を感じさせているのも、もしかしたらそこにあって、常に若者は支配者側というよりも支配のロジックの中に組み込まれてしまう側ですし、建築はどうしても強い人・大きい人・声が通る人、そういう支配のロジックの中にいるという違和感があります。血を流さない側に建築が常にコミットしているのは、半分宿命なのかと思うところもあるんですけれども、血を流す側にいられる建築もしくは建築家というのは、ありえるんですかね?

内藤これからはあり得ると思うんだけどね。今までの建築や建築家のあり方は、権力コミット型なんですけれども、川添さんの言っていることはよくわかります。建築というのは、ある規模を持つと社会構造の中の一部として立ち上がるので、権力にコミットしないと成り立たないし、その姿勢がないとコンペに応募したって勝てません。そういうことはあるんだけれども、でもそれをうまく乗り越える方法を誰かが考えるんじゃないかなとも思うんですよね。もちろんコミットする部分はあるんだけれども、それは一側面であって、その先に現れる何かというのを誰か発明するんだろうね。 川添さんの世代からかな。

川添『OVERLAP』の最後にも書いたんですけれども、最近みんな割とゼネコンや組織事務所に行きたがるんですよね。それは東大だけの現象ではなく、建築学科を卒業してアトリエに行く人は昔よりかなり減っていると思います。彼らは何を考えているかというと、社会的に役に立つとまでは言いませんけれども、社会の何かができる仕事がしたいと切実に考えています。逆にいうと、建築の設計に力を入れることと社会を良くすることが切り離されているかのような印象を与えているのだと思います。そういう閉塞感をなんとか打破しなくてはならない。そういう建築のあり方を探す時代であるということが、『OVERLAP』のまとめだったんですけれども、そこはおっしゃるとおり私たち世代の宿題だし、私たちが示せないとおそらく次の若い子たちがそういうところには希望を持てないんだと思うんですよね。

内藤ゼネコンの人たちとの付き合いが割と深いので、彼らの気持ちもよくわかります。ゼネコンも大変な変革期の中にいるので、ものすごい勢いで変わりつつありますね。戦場ですよ。建設会社のブランドを求めて就職するのは結構ですけれども、実際はそんなに甘くない。そこは戦場だぞという前提で行くのには面白いかもしれないけど。あとは大きい小さいとかいろいろあるんだけれども、建築の生産システムとか、そういうのとは全く違う次元で、建築の生命力みたいなものを見つけようとする人がいるといいな。それは都市の生命力と言ってもいいかもしれません。それがあれば、別にそれをつくる作り方は、スーパーゼネコンであれ、小さい工務店であれ、ディベロッパーであれ、それを共有できれば何だって良いんですよ。それこそが、川添さんが言っているような建築のあり方なのかなと思います。いま、建築は思考自体が小さくなってしまっているので、そういうものを巻き込むパワーが足りてないんですよね。だから、その思考を育ててほしいなと思いますね。

川添規模の話以前の建築の力ですね。

内藤去年ある人のところの集まりで聞いた話を諸君に伝えたいなと思っています。もう引退していますが、元某大手新聞の首相官邸付きの新聞記者で、中曽根康弘付きの記者だった方がいます。その記者が、ある時中曽根康弘に、「国家ってなんですか?」っていきなり聞いたそうです。その時の中曽根康弘の答えが、僕はなかなかすごいと思ったんです。その時少し考えて、「文化を守る装置かな」と言ったそうです。普通、社会とか政治とか経済があって、その周りに滲み出てくるものが文化だとみんな思っているわけじゃないですか。彼の言い方は逆で、むしろあんこの中身が文化で、それを守るために社会的な仕組みや法律も経済も政治もあるという考え方です。僕は、これからその考え方が大事になってくるんじゃないかなと思うんです。先ほど加速主義の話をしましたけど、やはり最後はこのあんこを守るための話にならないとおかしいし、僕らが存在するというコンテンツの一番のコアは文化なんですよ。その文化というのは、建築も都市も土木も、それからそれ以外の分野も関係ありませんよね。もっと核心にあるものですから。その守り方は、法律なのか経済なのかわからないですけれども、これからますます大事になってくる気がします。 世界中が右と左に分かれていったときに、日本っていうのは不思議な国で、あまり激しい対立になっていませんよね。ひょっとしたら日本という国が、ある種の世界のアジールになる可能性もあります。これからますますグローバルに見なければならない時に、そのアジールのコンテンツをもう少ししっかりしたものにしておくべきかなという気がします。それは若い諸君に言っておきたいなと思いました。

会場質問教養とかアカデミズムを突き抜けていったところで、もっと建築の中のダイナミズムがあるのではないかというお話が、自分の中で腑に落ちました。ここにいる大体の学生が、みんなアカデミズムの中で、それぞれの大学だったりの中で建築を学んでいて、そのアカデミズム自身も、大きな方向性を見失っている中で、どう建築のあり方を考えていけるのか。社会に出る前の身として困りながら悩んでいます。先ほどコアとおっしゃっていた文化についても、建築のアカデミズムの中の議論として向き合えていないという状況にもきちんと目を向けていくことが、新しいこれからの建築の大きな流れとかをつくっていくのかなと思いました。

内藤こういう素直な感性が大事ですよね。アカデミズム自体は、それはそれで必要なことですけれども、工学というのは、出発点は人間の暮らしの横にある技術なのですから。なので、人間のことをちゃんと考えて、あるいは結論なんて当然出ないけど、深く考える。それを持った人間が工学者として、建築であれ機械であれ、本来はそういう人間が扱うべきテリトリーなのだと思うんです。やはりそれは、数学やったり物理やったりするのとは違う。工学は人間学ですから。素養としての技術と素養としての人間に対する深い思考みたいなものは不可欠なんです。それさえあれば、たいていのことは出来ると僕は思うんです。組織なのか役人なのか個人なのかは分からないけれども、そういう人間が求められているんだと思います。

川添まだまだやることがたくさんありますね。少なくとも、本日の内藤さんとの対談を通して次の本で書くべきテーマもはっきりしました。

内藤気配だね。楽しみにしています。

内藤 廣
内藤 廣
(建築家・東京大学名誉教授・多摩美術大学学長)