*品切・再販未定です。
モダンデザインの青春と事件を証言する大回顧録、待望の邦訳。アール・ヌーヴォーを生み、バウハウス設立を導いた巨人の悲喜劇と信念。550名の登場人物が織りなす壮大なドラマは、臨場感あふれるモダンデザイン創世記。

アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド自伝 (*SOLD OUT)
ISBN:9784306045712
体裁:A5・632頁
刊行:2012年4月
- 日本語版刊行によせて ジークフリート・エンダース
- 第一章 幼少年時代
- 第二章 画家としてアントウェルペンからパリへ
- 第三章 ふたたびベルギーへ--困難と危機
- 第四章 芸術家としての使命
- 第五章 一八九七年--ドレスデンとベルリン
- 第六章 初期の反響--広がる仕事の領域
- 第七章 ブリュッセルとベルリンの間で
- 第八章 ベルリンの世紀末
- 第九章 ワイマールその一--創造の絶頂期へ
- 第一〇章 ワイマールその二--決定的な仕事と事件
- 第一一章 ワイマールその三--失望と破局
- 第一二章 スイスでの出来事一九一七~一九二〇年
- 第一三章 オランダのクレラー=ミュラー夫妻のもとへ
- 第一四章 ベルギーへの帰国:公職につく
- 第一五章 一九四七~五七年オーバーエゲリでのエピローグ
- 解説:芸術家アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド クラウス=ユルゲン・ゼムバッハ
- 編者解題 ハンス・クルイェル
モダンデザイン誕生前夜、その光と影
田所辰之助
アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドは、バウハウスの前身となったワイマール工芸学校を指導した芸術家、建築家だ。建築家としては、バウハウスの校舎としても使用されたこの工芸学校の校舎、また1914年にケルンで開催されたドイツ工作連盟展の劇場の設計などで知られている。ユーゲントシュティールと呼ばれる、19世紀末の世紀転換期に脚光を浴びた様式の代表的存在である。
ユーゲントシュティールとは不思議な様式だ。19世紀末、ミュンヘンで創刊された雑誌『ユーゲント(若者)』を舞台に、花や植物などをあしらった自由曲線をモチーフにした華やかな装飾が流行した。アール・ヌーヴォーのドイツ版とも見なされている。だが、その流行はほんのわずかな期間にすぎず、ユーゲントシュティールの影響力は急速に翳りを見せ、また同時に批判の対象となっていった。新様式が生まれ、試されていくときの光と影、このことを体現しているのがまさにヴァン・ド・ヴェルドの生涯だった。
今回邦訳なった大部の著『アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド自伝』は、そうしたモダンデザインの揺籃期を記録したドキュメントだ。ヴァン・ド・ヴェルドの幅広い人的交流を映し出して、登場人物は550名を超えるという。その中にはサミュエル・ビング、ハリー・ケスラー、カール・エルンスト・オストハウス、ユリウス・マイヤー=グレーフェなど当時のアート・プロデューサーたちとの関係も含まれ、モダンデザイン誕生前夜の地勢図が描き出された貴重な史料となっている。
ヴァン・ド・ヴェルドはもともとベルギー人でアントウェルペンで生まれ、パリに学び、ベルリン、ついでワイマールを拠点に活動し、第一次世界大戦後はベルギーに戻りブリュッセルを本拠地とした。本書の構成は、この時系列に沿って組み立てられている。だが、「自伝」とはいっても、じつはヴァン・ド・ヴェルド自身が編纂したものではない。ヴァン・ド・ヴェルドは出版を望み草稿を用意していたが、結局果たすことができなかった。没後、晩年を過ごしたスイスのオーバーエゲリの書斎に残された大量の原稿をもとに、編者ハンス・クルイェルが編み直した。その経緯は巻末の「編者解題」に詳しいが、各草稿は断片的で、編集作業は困難をきわめたという。語られて当然と思われる重要な事柄についての記述がなかったり(たとえば、バウハウス設立をめぐってのグロピウスとのやりとりなど)、矛盾する箇所があったりすることを編者自ら認めている。
だが、回想録につきもののそうした矛盾を越えて本書が重要なのは、ヴァン・ド・ヴェルドを通して世紀末のヨーロッパにおける応用芸術の壮大な実験、その時代の息吹が伝えられているからだろう。世紀末、というよく使われる言葉に代えて、ヴァン・ド・ヴェルドが主要な活動地としたドイツの歴史的文脈に沿って、むしろヴィルヘルム帝政期といってもよいかもしれない。バウハウスなどドイツにおけるモダンデザインは第一次世界大戦後のワイマール共和国の時代、いわゆる戦間期に花開いた。だが、第一次大戦前、ヴィルヘルムII世の親政下でドイツは対外拡張政策に舵を取り国力増強を図って、このときモダンデザインが生まれる土壌がつくられていった。
この時代、工業力の急速な増大とそれにともなって進行した生活環境の悪化、その改善に芸術家たちは取り組むようになった。ヴァン・ド・ヴェルドのように、多くの芸術家が絵画から応用芸術、デザインの世界へ転身したのもこのためだった。近代化によって醜悪さを増した世界からいかに人々を救い出すか。ヴァン・ド・ヴェルドだけでなく、同時代を生きた芸術家や建築家たちを突き動かしたものが本書に浮き彫りにされている。
だから、ヴァン・ド・ヴェルドが流麗な曲線を組み合わせたデザインをあつかう芸術家であっても、その造形哲学「理性的な造形」が工業と芸術の統合というきわめて近代的で合理的な理念を反映させたものだったことはなんら不思議ではない。バウハウスの実験の第一歩が―本書の中でもたびたび触れられるように―ワイマール工芸学校(さらにはその前身のワイマール美術工芸ゼミナール)で踏み出されたことをヴァン・ド・ヴェルドは誇りにしていた。問題意識はすでに共有されていたのである。モダンデザインの真の目的が造形改革だけでなく生活改革にあったことを、本書は全体を通じて静かに物語っている。
こうした意味で、本書が邦訳されたことの意義は大きい。小幡一氏による訳文は読みやすく、時代の躍動感を伝えてくれている。デザイン史、近代建築史の分野での基礎資料として重要な著作である。なによりも、デザインが芸術家個人の能力や才能を超えて、つねに時代というものを切り取りまた映し出していくものであることを、この本はあらためて教えてくれる。本書の出版を機に、モダンデザイン誕生前夜、ヴィルヘルム帝政期の動乱期におけるデザイン、建築への関心がさらに深められていくこともまた期待したい。
(たどころ・しんのすけ/日本大学教授)
[初出:『SD2012』鹿島出版会, 2012]