昼の大通りから夜の路地裏まで、多彩な表情で人々を魅了する銀座。伝統と革新が共存する銀座を複眼的に逍遥する魅惑的写真集。
銀座1丁目から8丁目までの中央通りの大パノラマ写真。Alley、Ginzaelements、Facade、Seasonalevent、Mainstreets、Tradition、Commercial、Underpassのキーワードに沿った銀座の日常風景。百花繚乱の街を映し出す銀座万華鏡。多彩な専門家たちの論文+エッセイで構成。

銀座ジャック 再び!
写真で銀ブラ
ISBN:9784306094505
体裁:A4・112頁
刊行:2019年9月
- まえがき
- 論文:陣内秀信
- 1:GINZAPanorama
- 2:GINZAScene/Alley、Ginzaelements、Fa?ade、Seasonalevents、Mainstreets、Tradition、Commercial、Underpass
- 3:GINZAKaleidoscope
- 4:GINZAGraffiti/槇文彦、蓑原敬、中島直人、面出薫、泉麻人、武蔵淳、松﨑宗平、松井龍哉、
- 田根剛、岡本圭祐
- あとがき
銀座の姫君を、やっと口説き落としたのと同じ出版の成果
桑原史成
A4サイズ、100頁余で出版された写真集『銀座ジャック 再び!』は、日本建築写真家協会の創立20周年の企画で刊行された。東京・銀座1丁目から8丁目までの中央通り両側の建物(ビル群)を撮影した巻頭の写真から始まる〈銀座〉の写真集である。
写真集の頁をめくって、僕は驚いた。社会問題や紛争の現場を追うフォトジャーナリストの写真表現では撮れない、捉えきれないテーマ(被写体)である。特異な世界の極めて高度な撮影のテクニックを要する写真作品群である、ということに気付かされた。まず、僕には撮れない衝撃が脳裏をかすめた。これまで建築写真は〈もの言わない〉静かな被写体を相手に大判カメラでアオリを駆使し、三脚は必需品で表現する世界、という固定の考えをもっていた。さらに、僕が写真界にデビューした1960年代の頃、失礼な表現だが〈建築写真家〉は軟弱な生き方、という印象をもっていたことを告白したい。言い訳だが、激動する韓国やベトナム戦争を取材してきて建築写真をはじめ料理写真などは平和な世界、と僕にはそう映っていた。
ところが、正確ではないが20数年前、JPS(日本写真家協会)に新入会員で高井潔君が入会して来て知り合った。当時、彼はゼネコンの大成建設に勤務していた。実は僕が大成とは下請けの企業との関わりで、得意とするシールド工法という地下トンネル建設工事の記録写真を撮影していたことで彼とは会話が弾んだ。東京・西新宿の十二社(熊野神社近く)の工事現場で行われた竣工式の時、大成の幹部の末席に高井君が鎮座していた。それ以前に、彼が勤務の合間を縫って撮影、記録してきた作品に接した。『民家』を始め『暖簾』の写真を見て、僕は驚いた。彼が写し撮った写真は日本人の生活、あるいは歴史と文化を留めた貴重な写真群である。僕は、即座にドキュメント写真だね、と彼に呟いたのを記憶している。この時から建築写真家に対する偏見を払拭することができた。
この写真集を見て「写真が動いている、生きている」、そんな印象を覚えたのも事実である。銀座は日本の首都の繁華街で、いわば日本の顔である。徳川幕府時代の江戸から明治、大正、昭和、平成と移り変わる激動の時代の中でも銀座は華の街に変わりはない。この写真集は、銀座の建物の建築写真集であることには間違いないが、多くの建築写真家たちが日常の業務で撮影する家屋やビルの建築物とは趣きが異なり、人がうごめく銀座の生の姿、その街と向き合い撮影しているかのように思える。従って、生き生きとした建物の匂いまでも伝わってくる感じがする。
巻頭の折りたたみ(観音開き)の紙面を合計すれば、ざっと1.5メートルの長さの、まるで絵巻物である。この大パノラマは、冒頭で述べた銀座1から8丁目までの両側の建物群が整然と撮り込まれているのである。現代のデジタル画像データを駆使しての成果は大きい。このような企画と表現の手法は僕などの素朴なドキュメント派の写真家には到底、果たせないことである。キーワードのひとつ〈Tradition〉では、僕も知らない場所や遺跡がある。さほど広くない銀座には人々が残した足跡が至る所にあることにも気づいた。刊行に際してエッセイを寄稿した陣内秀信さんをはじめ執筆者の玉稿が味わい深い。
銀座は、僕にとっても人生の節目で記憶に残る出来事がある。僕は東京農大で農業工学(土木)を専攻していて3年生になっていた。しかし、中学生の頃から写真を始めていて写真家への淡い夢を断ち切れないでいたのである。日本大学の写真学科への入学を模索したのだが、3年の歳月を経て時すでに遅しと考えた。そんなある日、銀座の小西六の写真ギャラリー(現在、松屋銀座の近く)に立ち寄った時に東京フォトスクール(現・東京綜合写専)の開校を知らせるポスターに巡り合う。1958年9月のことで、昼は大学に通い、夜間部の写真学校にも入った。共に卒業は1年半年後の1960年春である。同期には英信三君や内田健二君(日大、写真学科)がいて共に第1期生である。このフォトスクールには、暗室もなければスタジオもない。座学のみの授業で〈写真の寺小屋〉とも揶揄されていた。ところで後輩に、後に写真界にスーパースターの如く彗星のように登場する篠山紀信君が日大の写真学科に通っていて、僕たちの〈寺小屋〉のフォトスクールにも来ていた。
報道写真家を志望して、僕が処女作で発表したのは1962年9月、やはり銀座の富士フォトサロン(西銀座)での『水俣病』である。続いて1966年には同じギャラリーで『韓国』展を開いた。以降は銀座ニコンサロンの開館で『ベトナム』や『ロシア』などを展示してきた。銀座は、僕にとっても忘れることのできない思い出深い街である。
(くわばら・しせい/写真家)
[初出:『SD2019』鹿島出版会, 2019]