都市論のバイブル、待望の全訳なる。近代都市計画への強烈な批判、都市の多様性の魅力、都市とは複雑に結びついている有機体である——。1961年、世界を変えた一冊の全貌。
時代を超えた都市の原理
難波和彦
本書の邦訳は、1972年に黒川紀章による訳でSD選書に収められているものが知られている。実はその3年前に都市選書というシリーズの一冊として刊行されているのだが、どちらも全4部のうち前半2部だけの部分訳である。今回、初めて全訳が出たわけだが、初版が1961年に出版された原書が、1969年と2010年の二度にわたって邦訳されたのは、なぜだろうか。
ひと言でいうならば、本書は大都市の生死を決定づける普遍的な原理を提唱しているからである。あえて「普遍的」という古典的な言葉を使うことには理由がある。1950年代、1970年代、2000年代で、大都市の様相は大きく変化してきたにもかかわらず、本書が提唱する都市原理の有効性は、全く変わっていないからである。僕の考えでは、本書が提唱している都市原理は、時代や地域を超えて、世界中の大都市に通用するのではないかと思う。
この都市原理について、ジェイコブズはこう言っている。
その普遍的な原理とは、都市にはきわめて複雑にからみ合った粒度の近い多様な用途が必要で、しかもその用途が、経済的にも社会的にも、お互いに絶え間なく支え合っていることが必要だということです。
[第1章「はじめに」p.30]
本書は、この一見当たり前の原理にもとづいて、1950年代にニューヨークで展開された一連の再開発計画を詳細に批判したものである。したがって、原理は普遍的であっても、その具体的な適用は当時の歴史的な条件に大きく支配されている。1950年代のアメリカでは、第2次大戦直後のケインズ主義的な政策にもとづく行政による都市再開発が主流であり、その背景にはモダニズムの都市計画思想があった。ジェイコブズが批判したのは、そのようなトップダウン的な再開発なのである。後で述べるが、その点が今日の状況と大きく異なる。本書は、そのような歴史的背景を念頭に置いて読む必要がある。
メタボリストである黒川紀章が注目したのは、本書にモダニズムの機能主義的な都市計画思想を乗り越えるヒントを見たからである。1960年代に黒川は、メタボリズム思想にもとづいて都市計画や建築設計を展開していた。都市思想としてのメタボリズムは、依然として国家や行政に結びついた社会工学的な発想だった。彼はそのようなトップダウン的な方法を、本書のボトムアップ的な視点によって補完しようとしたのである。本書の前半2部では、都市原理が詳細に検討され、後半2部では、トップダウン的な都市計画に対する代替案が提案されている。黒川が前半の2部だけを邦訳したのは、おそらく後半2部の代替案が、彼のトップダウン的な方法と相容れなかったからだろう。
では、出版されて50年後の現在、本書が見直されるのはなぜか。僕の考えでは、現代の都市が、本書で提案されている都市計画の代替案を実現するのにふさわしい状況に、ようやく到達したからである。1980年代に西側世界では、ケインズ主義的な政策から、ハイエクやフリードマンが提唱する新自由主義的な政策へと転換した。さらに1980年代末から90年代にかけて社会主義諸国が崩壊し、トップダウン的な政策の歴史的失敗が明らかになった。これにともなって、それまでの公共的な組織は民営化され、政府による公共事業は民間事業にとって代わられた。そして都市は、民間の個別的な事業の集積として、自生的に生み出されることになった。つまり、本書で展開されているジェイコブズのボトムアップ的な都市思想を、積極的に活かすことができるような状況になったわけである。
とはいえ、障害が存在しないわけではない。最大のハードルは資本主義経済、平たくいえばコマーシャリズムである。都市空間のすべてを経済活動の対象としてとらえるコマーシャリズムは、ジェイコブズが都市の再生の必須条件として提唱する「小さな商業活動」の思想と相容れない。現代では、巨大資本が生み出す巨大建築とどう対峙するかが、本書から学ぶべき最大の課題である。
翻訳は読みやすく、巻末の訳者解説で、ジェイコブズの経歴と歴史的位置づけが詳細に紹介されているのも参考になる。僕としては、ぜひとも若い学生たちに読んでもらいたい。とくに、これから卒業設計に取り組む学生には必読書であることを付け加えておく。
(なんば・かずひこ/建築家、東京大学名誉教授)
[初出:『SD2010』鹿島出版会, 2010]