第3回 『生命科学的思考』×『EXPERIENCE』
高橋祥子(ジーンクエスト代表取締役)×川添善行
司会|倉田慧一
川添第3回は、『EXPERIENCE』の副題でもある「生命科学が変える建築のデザイン」というテーマについて議論を深めるべく、高橋祥子さんにお声がけしました。高橋さんは生命科学の博士課程に在籍している頃にジーンクエストという会社を創業されました。ジーンクエストでは、ごく簡単な遺伝子検査によってその人の病気のなりやすさや太りやすさ、お酒の強さなどがわかるというサービスを提供しています。お会いすると、いつも物静かな話し方の中に、とても切れ味の鋭いコメントがあり、ぜひ高橋さんに建築や都市のお話を聞いてみたかったのですが、やむを得ぬ事情により対談は中止となってしまいました。そこで、当日の司会をお願いしていた倉田さんとこの本を建築的分脈の中から捉え直すとどのような側面が見えてくるだろうか、ということについて、少し意見交換をしてみたいと思います。
倉田今回、普段なかなか接することのない分野の本を読み、生命科学やそれに関わるベンチャービジネスのイメージが大きく変わりました。
とくに、生命科学的知とそれが応用される社会の関係は、建築学にも通ずるところがあるのではないかと感じました。
高橋さんは、2冊著書を出版されています。
今回の対談の主題であった『生命科学的思考』は、生命科学的な思考法を専門外の人にも分かるように普遍化し、その考え方をビジネスや人生など幅広い文脈に位置づけるという挑戦的な内容です。こうした大胆な発想は、博士号を持つ研究者でありながら、起業家としてビジネスの世界へ進出されたご経験があってこそのものであると感じました。
その経緯や意図は、もう1冊の著書『ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか?』に書かれています。この本を読むと、高橋さんの事業が、生命科学の成果を利用するだけではなく、生命科学研究としての展望をもっておこなわれていることが分かります。
その背景には、ゲノム研究特有の事情があるようです。遺伝子の研究においては、サンプル数が重要な意味を持っています。なぜなら、生命には個体差があり、簡単には法則を見つけ出すことができないからです。とくに、体質や生活習慣病は多くの遺伝子と関係しているため、こうした点について研究をするには、大量のゲノムを集め、情報技術を使ってそれを隅から隅まで調べなければなりません。
ジーンクエストのサービスを通して解析されたゲノムデータは、体質や病気のリスクなどの項目に整理され、ユーザーに届けられます。しかし、それにとどまらず、現状ユーザーに提供されている箇所以外も解析され、既往歴等のアンケートと組み合わせて研究に用いられています。これによって、現代のゲノム研究に必要な大量のゲノムデータが収集できるのです。
ジーンクエストには、科学的研究と社会への応用という2つの側面があり、それが両輪となって事業が進められています。先端的な研究の動向を見据えながらサービスとしても成立させることの意義が、高橋さんの著書では明快に示されています。
このような知と社会の関係は、建築学によく似ているように思えます。建築は、それぞれが異なる文脈の上に成り立っているものであり、それぞれが果たすべき社会的役割を負っている一方で、その試行錯誤が積み重ねられた先には、この世界においていかに暮らすのかという問いがあります。近年の、とくに国家的規模のプロジェクトに関するコミュニケーション不全を考えると、建築の持つ2つの側面について、高橋さんのような明確な説明が求められているように感じます。
話題が変わりますが、私から川添さんにお聞きしたいと思っていたのは、生命科学と建築教育の関係です。
生命科学的な知見を積極的に建築教育に導入すべきだと思いますか?もし導入されるのだとすれば、それはどのような意味を持っているのでしょうか?それはどのような方法でおこなわれるべきで、どのような新しい建築を生み出すのでしょうか?
マルグレイヴは、『EXPERIENCE』のなかで、現代の建築教育を強い口調で批判しています。「捉えどころのないデザインの「コンセプト」を求めて、スタジオトレーニングに毎年何百時間もの時間を費やしている学生」が続出し、その結果「将来の居住者に寄り添ったデザインへの取り組み方を養うこと」に失敗している理論偏重の建築教育は、いよいよ「創造性にも足枷をはめ」るようなものになっており、「綿密な精査を必要としている」と。とても手厳しいですね。
たしかに、設計の授業を履修していた数年前の自分を思い返してみても、良いコンセプトを案出するということに気を取られ、ディテールに気を配ったり、人間の体験を丁寧にデザインするという視点を持ったりする余裕はなかなか持てていなかったと思います。
しかし、では具体的に何をしたら良いのかということについては、わたしたちに宿題として残されています。
脳科学の研究であれば、fMRIを用いて、人間がいかに空間を経験しているのかを知ることができるようになっています。しかし、建築設計の課題にこうした機器を取り入れるのは、やや高度で専門的すぎるかもしれません。
生命科学の知見と発想を取り入れることで人間の空間体験に対する理解を深め、建築教育としての効果や意義を高めていくには、どのような方法があり得るのでしょうか?
川添なんとも難しいお題が返って来ました(笑)。おっしゃる通り、『EXPERIENCE』の中でのマルグレイヴの主張の半分、つまり、現在の建築教育や評価のあり方が見直すべきタイミングである、という点については大いに賛成です。大学だからこそ自由に建築を捉えるべきだとは思いますが、それが過度に目新しさや奇想天外な「コンセプト」を追い求める風潮がないとは言えませんし、そうしたものを必要以上に奨励する風潮が存在することは事実だと思います。それをやりすぎてしまうと、本来は社会の礎であったはずの建築が、何かアイディア大喜利になってしまうことは悲しい状況だと思います。
一方で、では生命科学の知見が今すぐに建築デザインのベースになりうるかというと、そこにはまだ時間がかかると思います。研究室でも空間認知における脳波の研究を進めていますが、まだまだ解明できることは脳の働きのごく一部であり、空間を認識するときの脳のメカニズム、そして脳の働きを通して捉える「良い建築とは何か?」というところまではまだ到達できていません。
ただ、生命科学的な知見が建築に無縁だとも思っていません。最近の研究では、感情は脳だけで醸成されるものではないことがわかりつつありますし、脳波の研究によって、「傾向的に好まれる空間」がすこしずつ解明されつつあります。なにより、倉田さんのおっしゃる通り、多くの人を対象することによる遺伝的傾向を明らかにする、というアプローチそのものは建築学と大きく関係することでしょう。
ただ、それが建築を実際にどう変えるか、までは、まだわかりませんね。いつかそれを明示してくれる建築家なり建築史家が出てくるのを待つしかない気がします。現時点でわかることは、空間を認識する人間のことがよりわかるようになってきたからこそ、建築を生み出す工学の側だけでなく、それを利用する人間の側から建築の革命が起こる可能性が高いと思っています。同じ建築でも、感じ方が全然違う、というところから、新しい建築論が生まれるのかもしれませんね。
倉田たしかに、川添さんのおっしゃるとおり、生命科学と建築学にはまだ距離があり、具体的にカリキュラムに取り入れることのできるのはもう少し先なのかもしれません。
また、取り入れるとは言っても、建築学の外から新しい知識を借りてきてそれを当てはめるだけでは、あまり創造的とは言えません。マルグレイヴの『EXPERIENCE』は、こんなにも豊かな経験の系譜とでも呼べるような実践や知が連綿と続いてきたのだ、その流れが実は最先端の生命科学という大海へと流れ込んでいたのだという、ある種の世界地図を与えてくれるものでしょう。広い範囲が描かれた世界地図はそれ1枚だけでは冒険の役には立ちませんから、建築教育においても、あるいは研究や制作においても、一つひとつの建築における体験のあり方を丁寧に読み解き、その理解に根ざして生命科学と建築学の関係を考えていく必要があるのではないでしょうか。
最後の「同じ建築でも、感じ方が全然違う、というところから、新しい建築論が生まれる」という点から、川添さんのもうひとつの著書『OVERLAP』の議論を思い出しました。
生命科学は、科学ですから、再現性を担保できる空間認知の法則を得ようとする学問です。しかし、川添さんのおっしゃるように、一人ひとりの人間の身体やその感覚は多様であり、ひとによって建築の体験のあり方も異なります。
そして、当然ですが、建築はある程度の大きさがあって、多くの人を迎え入れるものでありながら、しかしバーチャルな空間とは違ってあくまでもその大きさは有限です。そのため、建築において考えなくてはならないのは、自分一人の体験でもなく、しかし大量のサンプルから得られた抽象的な体験の平均値でもない、数人から数十人という微妙な単位の体験の集まりです。
このような、妙な大きさを持つものをつくるときには、いくつかの身体感覚が重なったり、その間を行ったり来たりしたり、ときには妥協したり、というような、ある種のブレが生じるのではないかと想像します。
卑近な例ですが、ピクニックに出かけて、ご飯を食べる場所を決めているときにも、こうしたブレがありそうです。座るところといえばまずはベンチが思いつきますが、花壇の縁や切り株も使えますし、レジャーシートや折りたたみの椅子を持っていくという選択肢もあります。ベンチのそばにシートを敷くという組み合わせもありそうです。いっそだだっ広い芝生の真ん中も心地良いかもしれません。そして、数人であたりを歩きながら、何となく良さそうという合意の雰囲気が得られるところに食事の場所を定めることになります。そのなかで誰がどこに座るのかということにも、それぞれの個性が出るかもしれません。
ピクニックはあまりにも単純な例かもしれませんが、建築を生み出す側だけではなく、建築を利用する人間の側から建築を捉え返してみると、このように、複数の身体感覚の複合と対立の結果生じるものとして、建築や都市を読み解くこともできるかもしれません。
川添さんは『OVERLAP』のなかで「気配」というキーワードを提示されています。気配を感じる要因のひとつに「合理的な図式に閉じないこと、複数の主体や論理が共存し、多様な体験が得られる状態であること」によって「他者性」が感じられることがあると指摘されています。
川添さんのおっしゃる「気配」と『EXPERIENCE』における「体験」や「空気感」には近い部分もありますが、完全に同じでもないような気がしました。他者性という観点は、マルグレヴにはありません。しかし、人によって同じ建築でも感じ方が異なることを考えると、他者性という視点は重要な意味をもっているのではないかと感じました。
気配という言葉と体験や空気感という言葉の違いや、気配という言葉を選んだ理由について教えていただけますか?
川添ピクニックの例えはとてもおもしろいですね。たしかに一人一人が良いと思う場所は、解像度を高めて見れば見るほど異なるはずですね。従来はそうしたものを平均化・標準化することでみんながだいたい良いと思いそうな建築を作ってきたわけですが、建築に高橋さんが提唱されるような生命科学的な思考法が入り込むことで、一人一人の違いにも配慮することのできるデザインが生まれてくるのかもしれません。一方で、高橋さんが取り組んでいる遺伝子解析などは一人一人の違いを超えたところにある全体的な傾向を掴もうとしているのだと解釈すると、これまで建築が行なってきた個の差異を超越した全体性にアプローチしようとしているのだとすると、建築的思考法と生命科学的思考法とがクロスオーバーしているとも言えるのかもしれません。そして、建築と生命科学という、これまであまり接点が見出しづらかった領域を結ぶ試みが『EXPERIENCE』の役割なのだと思います。
そうした領域間の接続可能性は、『OVERLAP』でも試みました。こちらは、都市と建築の接続を目指しています。極端に言えば、良い都市を作るのは良い建築である、ということを言いたかったわけですが、良い都市をつくるための建築は、必ずしもこれまで建築界で評価されてきたような「作品至上主義」の建築ではないと思います。良い都市とは何か?良い建築とは何か?両方に通じるキーワードとして私がたどり着いたのが「気配」であり「他者性」でした。『EXPERIENCE』で取りあげられているような「体験」や「雰囲気」は建物のような小さいスケールでは成立すると思ったのですが、色々な人が暮らす都市では想定しにくいように感じたからです。
ただ、本をお読みになった建築家の大野秀敏さんからも、「気配」についてまだまだ書いてほしい、という激励もいただきましたので、これからも「気配」については考えを深め、実践を積み重ねていきたいと思っています。