EXPERIENCE

EXPERIENCE

生命科学が変える建築のデザイン

ハリー・F. マルグレイヴ/著、川添善行/監訳、兵郷喬哉、印牧岳彦、倉田慧一、小南弘季/訳

3,400円(+税10%)

ISBN:9784306047099

体裁:四六・408頁

刊行:2024年1月

神経科学・認知科学の知見から分析可能となった建築デザインの本質に切り込み、建築の体験と人々の知覚の関係に新たな見方を提示する。
 
なぜ、われわれは廃墟のような生活環境が人間の健康や行動の病理に何も関係がないかのように装い続けるのだろうか?
 
「建築家の役割は――これは強調しておくべきである――「つくる」ことの理論化ではなく、われわれが住まう場所を築き、そこに命を吹き込むことである。そうした意味において活動的生は、ものをつくることだけではなく、体験をつくることを必然的に含意する。このことは人間の肝要な性質の証しなのである。」(本書より)

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  • 解題        川添善行
  • 序章        
  • 第1章 文化の実践としての建築
  • 第2章 文化理論と生物学
  • 第3章 生命体と環境
  • 第4章 新たな知覚モデル
  • 第5章 美の体験
  • 第6章 形態と空間
  • 第7章 場所・空気感・ディテール
  • 第8章 社会性の起源
  • 第9章 デザインの新たなエートス
  • サラ・ロビンソンによる序文 建築家は文化をつくる サラ・ロビンソン
  • 訳者あとがき
  • 索引

建築体験と知覚モデル――建築デザインが生み出す快楽・情動・幸福感

加藤耕一

本書は、現代の建築のデザインに関心をもつ全ての人にとって、必読書となるだろう。タイトルの「生命科学」というキーワードを見たとき、自分の興味とは無関係だと思う人もいるかもしれない。だが本書を読み進めていけば、マルグレイヴがなぜ、この側面から建築デザインを考えようとしたのか、その重要性が見えてくる。

建築デザインとは、文化の実践であり、文化をつくり出すことのはずだと、彼は強調する。だが、20世紀の延長にある現代建築の理論、実践、教育は、自らの幅を狭め、文化を建築デザインの片隅に追いやってしまった。袋小路に陥ってしまった建築デザインを救い出し、大きな文化のなかに再び位置づけ直すための考え方を示すことが、本書の目的なのである。一見すると建築文化から遠く離れたところにあるように感じられる「生命科学」という学問分野から建築理論を再考した本書は、建築の新たな未来を切り拓いてくれる良書である。

 

本書『EXPERIENCE 生命科学が変える建築のデザイン』の背景には、若かりし頃のマルグレイヴが、近代ドイツの観念論的建築理論からモダニズムの誕生を問い直そうとした一連の仕事がある。マルグレイヴの初期の重要な仕事としては、ゲッティ・センターでの、近代建築に関するアーカイヴァル・ワークがあった。オットー・ワーグナーやJ.J.ヴィンケルマン、ヴァルター・クルト・ベーレント、そしてゴットフリート・ゼンパーらによるドイツ語の一次資料から英語への翻訳が、マルグレイヴ名義で出版されている。なかでも『感情移入・形態・空間:ドイツ美学における論点 1873-1893』(Empathy, Form, and Space: Problems in German Aesthetics, 1873-1893, Getty Center of the History of Art and the Humanities, 1993)は、彼の重要著作である。ここでは、ロベルト・フィッシャー、コンラート・フィードラー、ハインリヒ・ヴェルフリン、アドルフ・ゲラー、アドルフ・ヒルデブラント、アウグスト・シュマルゾーといった19世紀の終わりにドイツで活躍した美学者や美術史家たちによる、感情移入論や建築心理学に関する重要な論考群がドイツ語から英訳され、マルグレイヴ自身による密度の濃い解説とともに収録されている。

モダニズム前夜、19世紀末の建築デザインの世界は、歴史的な建築様式のリバイバルからの脱却を目指していた。様式的なデザインに代わって、建築家たちが夢中になったのが「形態」や「空間」という抽象概念である。そして彼らが、具象的なかたちのデザイン(様式)から抽象的な形態論や空間論へと移行するにあたり、よりどころにしたのが感情移入論や心理学であった。様式的な建築設計は、ある種のデザインカタログに基づく設計システムであり、視覚的にデザインの善し悪しを判断することが容易であった。だが形態や空間の善し悪しは、より感覚的で体験的なものである。モダニズム前夜の美学者、哲学者、建築家たちは「感情移入」という概念によって、形態や空間に対する人間の感情を捉えようとしたわけである。

そうして誕生したはずのモダニズムであったが、感情移入論は、20世紀を通じてほとんど忘れ去られていったかに見えた。モダニズムも結局は視覚重視に傾いていったからである。だが実は、20世紀の建築理論や文化理論のなかでも感情移入論に対する関心は細々と生き続け、ついに近年、さまざまな分野で復権しつつある。その背景には、脳科学、神経科学、生理学の発展があった。マルグレイヴは、19世紀末の重要な建築理論であった感情移入論に、生命科学の分野から光を当てなおすことで、21世紀の建築理論を示したのだった。

建築を単にオブジェクトとして捉え、視覚芸術としてのみ考えるうえでは、感情移入論も脳科学も必要ない。だが視覚に対する偏重は、建築や都市が持つ視覚以外の体験的な感覚の重要性を排除しがち、という大きな犠牲を伴ってきた。例えば、焼きたてのパンの匂いと、懐かしい我が家の記憶や旅の思い出のような例を考えたとき、嗅覚と空間体験は密接に結びついていたはずである。ゴシックの大聖堂で出合うパイプオルガンの響きや聖歌隊の歌声は、ゴシック建築の荘厳さと切り離すことはできない。さらに素材の手触りや温度、それが空間にもたらす空気感など、建築空間の体験は人間のさまざまな知覚と結びついている。こうしたさまざまな知覚に結びつく建築をデザインすることこそが、文化としての建築や都市をつくり出すことなのだ。

本書を読めば、マルグレイヴが参照、引用した建築・文化・生物学・脳科学に関する多様な文献を、自分自身でも手に取って読みたくなることだろう。建築の専門性にとどまらない幅広い分野の文献が多数登場するため、建築を新たな目で見直すためのブックガイドとしてもお勧めである。

(かとう・こういち/建築史家、東京大学教授)